久しく更新してませんでした。
アウトプットが続いた後は、猛烈なインプットの時期がやってきます。
受験生レッスンの合間に様々な音楽を聴いたり、読書の日々です。
20代のあるリサイタルの際に随筆家の白洲正子さん「白洲正子の着物」という本をいただいたのですが、どなたから頂いたのかが不明で、いろんな方に聴いたのですが、今日まで謎のままです。
その本が何故か、いつしか私に必要なんだろうなあ、と思ったことが深く印象に残っております。
すぐに読む気にはならず、しばらくしてからその本を手に取りましたが、当時は着物や骨董には
興味がわかずに、内容よりも白洲正子さんの文体が、凛として心地よく感じたことを覚えています。
そして、今年Aさんとの出会いにより、ふと「お能」に惹かれ、今なのだと直感し、読む時期が来たのだと思っています。
お能についての本も読みましたが、なぜ読んでいるかというと、知識の事前準備ではなく、お能に触れた方も考え方や言葉から、何かを感じるものがあり私の心を揺さぶるものを感じるのです。
そして、「観たい」という気持ちがどんどん高まってくるのがわかり、またその感覚がとても心地よいのです。もしかしたら観た時にはすでにその感動はないのかもしれないと、考えることもありますが、
おそらくそのようなことはないと思います。
どんな芸術も感じることが大事であって、何を知っているかはさほど重要ではないと、多くの方が言っており、私もそう思います。
日頃ピアノを教えていて感じる矛盾や疑問が、クラシックの世界の言葉からでなく、能や日本芸能に関ってきた方からの言葉を通して、何か私の心をぴったりとあらわすものが見つかった嬉しさと
ピアニストとしても、そのような考え方や言葉、歴史や美に関する感じ方などが
非常に参考になり、とてもイメージしやすく、何かもっと広がりを感じたかった私に扉を開いてくれた感覚で、わくわくするというか、ときめくというか、そんな気分なのです。
読んできた本には沢山の良い言葉が綴られています。
例えば、白洲正子さんの娘、牧山桂子(まきやまかつらこ)さんの「次朗と正子」のなかでは、
桂子さんがお茶やお花、料理や裁縫などの習い事に行ってみたいと言うと、
白洲正子はこのように言う。「習ったからといってどうなるものではい。習ってしまうとその形になってしまい、自分らしさをだすのに後でものすごく苦労するしなければならない羽目になる。それよりいい物を見るほうがためになる」
これはいろんなことを習った人の言葉であり、共感する部分があるが、教える立場として非常に悩むべきところでもある。人は良いものに触れた瞬間に開花することが多々ある。いかにそれを与えるかが私の仕事でもあると思う。
他にも、娘桂子が骨董屋に連れて行かれた時に、「これはなに?」と聞いたところ、
「そんなもの知って何になる。本当に知りたくなった時にしればいい」と親である正子が答えるのだ。
人によって感じ方はさまざまであろうが、なんとシンプルに生きてきた人なんだろうと、私はすがすがしく感じる。
あげていったらきりがないが、例えば展覧会に行ってガラス越しに見る美術品からは私は大きなものは感じない。
「美しい器を手にとって所有するとしないでは大きな相違である」と小林秀雄が言うように、
芸術とは実践であるのだなあとなんとなく感じる。
私はいつしか、着物やお茶にいくのだろうと予感している。
心に残る言葉は書きつくせないほどありますが、機会があればまた綴ってみたいと思います。
■最近読んで良かった本■
牧山桂子 「次朗と正子」
白洲正子 「お能の見方」
白洲正子 「遊鬼」
観世銕之丞 「ようこそ能の世界へ」
三浦裕子 「面からたどる能楽百一番」
世阿弥 「風姿花伝」
千住正子 「千住家にスタラディバリウスが来た日」
千住正子 「千住家の教育白書」

















